水に浮く
花の髪を長江を渡る風が揺らす。
「きれいですね」
水面に映る陽の光が反射し、きらきらと輝いている。
孔明は眩しげに目を細め、無言のままちらりと花を見て、すぐに視線を長江へ向けた。
孔明には見えている。
この川面に映るのは炎。浮かぶのは人の死体。
闇の中では分からないだろうが、人の血で河は赤く染まる。
その光景を見たら、花はきっと泣くのだろう。
*
ずっとずっと、花を探していた。
亮のころから背も伸び、ずっと知識も増え、孔明と名乗るようになっても、彼女は現れなかった。
光の中に消えてしまった花。
どれほど待っても彼女は現れない。
もう二度と会うことはないのかと絶望しかかった時、曹孟徳の名を聞いた。荀文若の名を聞いた。
それは彼女が言っていた名。
なぜ、彼女はその名を知っていた? もしかしたら、彼女はこの時代を知っていた?
花は、ここに、この時代にいる?
やがて劉玄徳の名を聞いた。
単なる一武将に過ぎなかった彼は、どんどん頭角を現し、軍を率いるまでになる。
彼女は玄徳にお世話になっていたと言っていた。
孔明は密かに玄徳軍の内情を探る。
もしかしたら、彼女が軍師として玄徳軍にいるのではないかと期待していた。
けれどそんな様子はなかった。
花はいない。
どこにもいない。
がっかりとした気持ちとは別に、孔明は劉玄徳をさぐる。
仁の人だと言われ、慕うものも多い。
従うものには、関雲長・張翼徳をはじめ、趙子龍など名将もいる。
現在は荊州牧劉景升の呼びかけに応じて食客となっているようだが、いずれより大きな存在になるだろう。
花との約束通り戦をなくすためには、戦が起きない状態を作ればいい。
方法はいくつかある。
中華すべてを統一勢力が治める方法が一つ。
だが、この国は広い。全土を治める国王には、かなりの力量が要求される。
漢の高祖や武帝、光武帝に匹敵する君主。
だがその一代はいいとしても、名君主の子が名君主であるとは限らず、いつかは分裂するときがくる。
夏や殷の時代から滅ばなかった王朝はないのだから。
今、あれだけの栄華を誇った漢王朝ですら最後の時を迎えようとしている。
それならば、最初から分裂をさせておく。
あまり多すぎると混乱と争いを招くので、三国。勢力を拮抗させ、三すくみ状態にしてしまえばいい。
曹孟徳と、南の孫家、それに対抗できる存在。
劉玄徳は第三の勢力になり得るだろうか。
そう考えていると、孔明の中の亮が叫ぶ。
「花がいないのに、戦をなくしてなんの意味がある」
意味はある。
この国の人々は相次ぐ戦乱に、飢饉に、疲弊している。
土地を捨て流民となり、あるいは賊に身を落とし、結果、国家まで疲弊している。
戦をなくせば、大勢の人を救うことができる。
「花がいないのに」
うん。
それでも、彼女がいたらきっと戦をなくす道を探す。
「花がいないのに、お前にそんなことができるのか」
できる。
敢えて犠牲者を出すことで、残りの大勢を救う策ならボクでも可能だ。
「そんな策、花は喜ばない」
その通りだ。
花は出来る限り味方にも、敵にまで犠牲者の少ない戦い方を選んでいた。
彼女が言うとおりに戦況は進んだ。
やはり彼女は仙女だったのかもしれない。
伏龍と呼ばれようとも実際には単なる人の身のボクでは、限界がある。
だから、花。早くあなたを見つけたい。
花に会いたい。
そんなある日、星が変化を告げた。
時代が動く。
そんな予感と確信。
北は曹孟徳が完全に掌握した。
南はまだ若い孫仲謀を周公瑾、魯子敬がよく支え安定している。そろそろ北への進出を考える頃だろう。
荊州では劉景升が病に倒れた。彼の子息はまだ幼い。
荊州を北の曹孟徳と南の孫家が狙っている状況で、彼らに後を継がせるのは難しいだろう。
家臣内で分裂をするのか、或いは劉玄徳のもとで結束するのか。
劉玄徳はこの庵にもやってきた。
でも、まだ時期ではない。
この世界が動くのに、花がいない。
そして、あの光を見た。
花が消えたときと同じ、白く強烈な光。
孔明は慌てて光源と思われる場所へ駆けつけた。
そして、出会ったのだ。「花」と。
姿かたちは、年も取らず当時のまま。
その花は何も知らなかった。
この世界を夢だと言った。
そして元の世界へ帰りたいと言った。彼女の平和な日常へ。
それは立っていられないほどの衝撃だった。
いったいどういうことだ。
そして更に謎は深まる。
博望の戦いで火計を使った花。
それはボクも考えていた策。もっとも有効に敵を圧倒するための、敵を殺すための策。
あの花だったら、きっともっと違う策を取ったはず。
花じゃない。孔明の求めていた、あの花じゃない。
そう思った。
それなのに、その夜、勝利に湧きかえる玄徳軍の中、花は一人悩んでいた。
自分の策のせいで、敵も味方も、大勢の人間が死んでしまったと。
敵だから殺してよいとは思わないと。
すべてが繋がる。
ああ、やっぱり花だ。今ここから、花はあの花になっていくんだ。
彼女にとってはここが始まり。
神出鬼没で何を考えているのかわからない師匠とは、つまりは今のボク。
花は「導いてくれる」と言ってくれた。
ボクがその役目なんだ。
もう一つ分かったこと。
彼女は今まで戦場など、人が目の前で死ぬことなどない、平和な世界にいた。
花はその世界から来て「帰りたい」と言っていた。
ボクは――。
黄巾党にいたころ。
花は尊敬する人は師匠だと言っていた。
恋愛感情に鈍い花は自分では気づいていないようだったけれど、花は亮が嫉妬するほどにはその人を大切に思っているようだった。
花に再会した時、もし彼女があの師匠のものになっていようとも、奪おうとまで思っていた。
けれど、師匠はボクのことで、だったら何のためらいもなく花を手に入れることができる。
「ずっと、ずっと、想っていたのに」
その亮の声を無視した。
声が震えずに出るか心配だったけれど、いつでも表情を出さないよう訓練してきた成果か、いつも通りの声が出た。
花が、何を考えているのか分からないと評した声だ。
「師匠って呼んでよ。その方がらしいだろ」
ボクがあなたの師匠になる。
あなたがあなたの道を間違えたりしないよう、しあわせになれるよう、ボクが導くと、そう決めた。
*
川面を吹き渡ってきた風が、柔らかそうな花の髪を揺らす。
花は飽きもせず、風景を眺めている。
孫家へ使者へ行くというのに、何の緊張感も見られない。
あの頃の花も、戦以外の場面では、のんびりとした人だった。
けれど、さすがに途中でボクが消えたら驚くだろう。
まあ、一人にしても彼女の身には危険なことは起こらないはずだ。
まだ花は亮と出会っていないのだから。
これから起きることを、孔明が起こすことを、彼女に見られたくなかった。
孫家が、というより周公瑾が、彼女の力を知れば警戒しかつ上手く利用できないか考える。
そしてそのまま仲謀軍内に、彼女の身を留めておいてくれるはずだ。
戦に出すことなどしないだろう。
彼女は戦場を直接見ることはない。
孔明は自嘲した。
本音は、彼女に軽蔑をされたくないだけだ。
せめて花の師匠への尊敬は失いたくないのだと考えている自分に呆れる。
でも、この龍ならざる人の身では、その策しかないのだ。
ボクは、戦を起こす。
この河を炎と孟徳軍の血で染める。
花。
君は仙女ではなく、変わった書を持つだけの普通の女の子だった。
けれどこの世の理から外れる君は、きっと水に沈まない。
この世のものではないのだから、きちんと、元来た場所へ返してあげないとね。
帰りたいといった花。
戦とは無縁の所。
ここよりも、もっと平和で、彼女がしあわせになれる場所。
今はまだ花を返す方法は分からないけれど、ボクが必ず見つけだす。
ボクの中の亮だった部分がどれだけ痛みを訴えても、きっと探し出す。
ボクは君の師匠なのだから。
君のしあわせを願っている。心から。
「きれいですね」
水面に映る陽の光が反射し、きらきらと輝いている。
孔明は眩しげに目を細め、無言のままちらりと花を見て、すぐに視線を長江へ向けた。
孔明には見えている。
この川面に映るのは炎。浮かぶのは人の死体。
闇の中では分からないだろうが、人の血で河は赤く染まる。
その光景を見たら、花はきっと泣くのだろう。
*
ずっとずっと、花を探していた。
亮のころから背も伸び、ずっと知識も増え、孔明と名乗るようになっても、彼女は現れなかった。
光の中に消えてしまった花。
どれほど待っても彼女は現れない。
もう二度と会うことはないのかと絶望しかかった時、曹孟徳の名を聞いた。荀文若の名を聞いた。
それは彼女が言っていた名。
なぜ、彼女はその名を知っていた? もしかしたら、彼女はこの時代を知っていた?
花は、ここに、この時代にいる?
やがて劉玄徳の名を聞いた。
単なる一武将に過ぎなかった彼は、どんどん頭角を現し、軍を率いるまでになる。
彼女は玄徳にお世話になっていたと言っていた。
孔明は密かに玄徳軍の内情を探る。
もしかしたら、彼女が軍師として玄徳軍にいるのではないかと期待していた。
けれどそんな様子はなかった。
花はいない。
どこにもいない。
がっかりとした気持ちとは別に、孔明は劉玄徳をさぐる。
仁の人だと言われ、慕うものも多い。
従うものには、関雲長・張翼徳をはじめ、趙子龍など名将もいる。
現在は荊州牧劉景升の呼びかけに応じて食客となっているようだが、いずれより大きな存在になるだろう。
花との約束通り戦をなくすためには、戦が起きない状態を作ればいい。
方法はいくつかある。
中華すべてを統一勢力が治める方法が一つ。
だが、この国は広い。全土を治める国王には、かなりの力量が要求される。
漢の高祖や武帝、光武帝に匹敵する君主。
だがその一代はいいとしても、名君主の子が名君主であるとは限らず、いつかは分裂するときがくる。
夏や殷の時代から滅ばなかった王朝はないのだから。
今、あれだけの栄華を誇った漢王朝ですら最後の時を迎えようとしている。
それならば、最初から分裂をさせておく。
あまり多すぎると混乱と争いを招くので、三国。勢力を拮抗させ、三すくみ状態にしてしまえばいい。
曹孟徳と、南の孫家、それに対抗できる存在。
劉玄徳は第三の勢力になり得るだろうか。
そう考えていると、孔明の中の亮が叫ぶ。
「花がいないのに、戦をなくしてなんの意味がある」
意味はある。
この国の人々は相次ぐ戦乱に、飢饉に、疲弊している。
土地を捨て流民となり、あるいは賊に身を落とし、結果、国家まで疲弊している。
戦をなくせば、大勢の人を救うことができる。
「花がいないのに」
うん。
それでも、彼女がいたらきっと戦をなくす道を探す。
「花がいないのに、お前にそんなことができるのか」
できる。
敢えて犠牲者を出すことで、残りの大勢を救う策ならボクでも可能だ。
「そんな策、花は喜ばない」
その通りだ。
花は出来る限り味方にも、敵にまで犠牲者の少ない戦い方を選んでいた。
彼女が言うとおりに戦況は進んだ。
やはり彼女は仙女だったのかもしれない。
伏龍と呼ばれようとも実際には単なる人の身のボクでは、限界がある。
だから、花。早くあなたを見つけたい。
花に会いたい。
そんなある日、星が変化を告げた。
時代が動く。
そんな予感と確信。
北は曹孟徳が完全に掌握した。
南はまだ若い孫仲謀を周公瑾、魯子敬がよく支え安定している。そろそろ北への進出を考える頃だろう。
荊州では劉景升が病に倒れた。彼の子息はまだ幼い。
荊州を北の曹孟徳と南の孫家が狙っている状況で、彼らに後を継がせるのは難しいだろう。
家臣内で分裂をするのか、或いは劉玄徳のもとで結束するのか。
劉玄徳はこの庵にもやってきた。
でも、まだ時期ではない。
この世界が動くのに、花がいない。
そして、あの光を見た。
花が消えたときと同じ、白く強烈な光。
孔明は慌てて光源と思われる場所へ駆けつけた。
そして、出会ったのだ。「花」と。
姿かたちは、年も取らず当時のまま。
その花は何も知らなかった。
この世界を夢だと言った。
そして元の世界へ帰りたいと言った。彼女の平和な日常へ。
それは立っていられないほどの衝撃だった。
いったいどういうことだ。
そして更に謎は深まる。
博望の戦いで火計を使った花。
それはボクも考えていた策。もっとも有効に敵を圧倒するための、敵を殺すための策。
あの花だったら、きっともっと違う策を取ったはず。
花じゃない。孔明の求めていた、あの花じゃない。
そう思った。
それなのに、その夜、勝利に湧きかえる玄徳軍の中、花は一人悩んでいた。
自分の策のせいで、敵も味方も、大勢の人間が死んでしまったと。
敵だから殺してよいとは思わないと。
すべてが繋がる。
ああ、やっぱり花だ。今ここから、花はあの花になっていくんだ。
彼女にとってはここが始まり。
神出鬼没で何を考えているのかわからない師匠とは、つまりは今のボク。
花は「導いてくれる」と言ってくれた。
ボクがその役目なんだ。
もう一つ分かったこと。
彼女は今まで戦場など、人が目の前で死ぬことなどない、平和な世界にいた。
花はその世界から来て「帰りたい」と言っていた。
ボクは――。
黄巾党にいたころ。
花は尊敬する人は師匠だと言っていた。
恋愛感情に鈍い花は自分では気づいていないようだったけれど、花は亮が嫉妬するほどにはその人を大切に思っているようだった。
花に再会した時、もし彼女があの師匠のものになっていようとも、奪おうとまで思っていた。
けれど、師匠はボクのことで、だったら何のためらいもなく花を手に入れることができる。
「ずっと、ずっと、想っていたのに」
その亮の声を無視した。
声が震えずに出るか心配だったけれど、いつでも表情を出さないよう訓練してきた成果か、いつも通りの声が出た。
花が、何を考えているのか分からないと評した声だ。
「師匠って呼んでよ。その方がらしいだろ」
ボクがあなたの師匠になる。
あなたがあなたの道を間違えたりしないよう、しあわせになれるよう、ボクが導くと、そう決めた。
*
川面を吹き渡ってきた風が、柔らかそうな花の髪を揺らす。
花は飽きもせず、風景を眺めている。
孫家へ使者へ行くというのに、何の緊張感も見られない。
あの頃の花も、戦以外の場面では、のんびりとした人だった。
けれど、さすがに途中でボクが消えたら驚くだろう。
まあ、一人にしても彼女の身には危険なことは起こらないはずだ。
まだ花は亮と出会っていないのだから。
これから起きることを、孔明が起こすことを、彼女に見られたくなかった。
孫家が、というより周公瑾が、彼女の力を知れば警戒しかつ上手く利用できないか考える。
そしてそのまま仲謀軍内に、彼女の身を留めておいてくれるはずだ。
戦に出すことなどしないだろう。
彼女は戦場を直接見ることはない。
孔明は自嘲した。
本音は、彼女に軽蔑をされたくないだけだ。
せめて花の師匠への尊敬は失いたくないのだと考えている自分に呆れる。
でも、この龍ならざる人の身では、その策しかないのだ。
ボクは、戦を起こす。
この河を炎と孟徳軍の血で染める。
花。
君は仙女ではなく、変わった書を持つだけの普通の女の子だった。
けれどこの世の理から外れる君は、きっと水に沈まない。
この世のものではないのだから、きちんと、元来た場所へ返してあげないとね。
帰りたいといった花。
戦とは無縁の所。
ここよりも、もっと平和で、彼女がしあわせになれる場所。
今はまだ花を返す方法は分からないけれど、ボクが必ず見つけだす。
ボクの中の亮だった部分がどれだけ痛みを訴えても、きっと探し出す。
ボクは君の師匠なのだから。
君のしあわせを願っている。心から。
END.