酔っ払いにご注意

ふわふわ。
なんだかとても気持ちよかった。
身体もほんのり温かい。
ふわふわ。
「はな」
名前を呼ばれる。
この声は師匠だ。声はすぐそばから聞こえる。
ふわふわ。
「はーな」
また名前を呼ばれる。
気付けば、すぐ目の前に孔明の顔があった。
間近で見る師匠の顔。
子龍くんや公瑾さんほどものすごい美形という訳ではないし、玄徳さんや雲長さんほど大人っぽくて凛々しいという訳でもない。
どちらかと言えば、かわいい、だろうか。
報復が恐ろしいので、本人には決して言えないけれど。
でも、顔立ちは整っているし、正装をすれば一気に大人びた風貌になるし。
女官たちの成都イケメンランキングでもトップクラスに入っている。

客観的に見ても孔明はかっこいいし、花は孔明の顔が好きだ。
でも、きっと顔の造形の美醜に関わらず、花は孔明のことを好きになっていたと思う。
だけど、花は孔明が好きで、孔明の顔は今の顔立ちで、花はやっぱり孔明の顔だって好きだ。

花は孔明が仕事をしている時の真剣な顔が好きだった。
休憩時間に、めったにない休みの日に、花のそばでだけはくつろいだ表情を見せてくれるのが好きだった。
孔明が花をじっと見つめるとき、その黒い瞳に混ざる何かが、花に熱をもたらす。
でも、そういう孔明の顔も、表情も、声も、伝わる熱も花は大好きだった。

その孔明の顔が花の目の前にあって、黒い瞳に花を映している。
じっと見ていると、吸い込まれそうだ。
師匠がそばにいてくれて、自分を見てくれている。
しあわせだと思う。
でも残念なことに、師匠は遠ざかってしまった。
代わりに子龍くんの顔が見えたかと思うと、ふわりと浮遊感が花を包み込む。
ふわふわと気持ちよい。
ふわふわ。



花を彼女の部屋まで運んでくれた子龍に礼を言うと、彼は一礼をして去って行った。
やれやれ。
孔明は寝台で横になっている花に目をやった。
実に気持ち良さそうに、すやすやと寝ている。
宴でいつの間か少し酒を飲んだらしい彼女は、酒に弱かったのだろう。
孔明が気づいた時には既にうとうととしていて、孔明が彼女の隣に座ったとたん、安心したのか本格的に眠り混んでしまった。
少し待てば目を覚ますかと思ったのだが、なかなか目を覚まさず、仕方が無いので子龍に彼女を運んでもらったのだ。
「のん気なものだよねえ、君は。それともボクがそばに行くまで一応は起きてたことを褒めればいいのかな」
「ん……」
孔明の小言が聞こえたのだろうか。仰向けに寝かされていた花は、もぞもぞと動いて、身体を横に向けた。
その拍子に彼女の「すかーと」がめくれ、白い太ももが露わになった。
目をそらそうとして、けれど、そらせない。
孔明は寝台の縁に腰掛けた。
みしりと音を立てて寝台が少し沈みこむ。
それでも花は目を開けない。
「相変わらず警戒心がないよね」
花の頬に手を伸ばした。

孔明にとって時折開かれるこうした宴は情報収集の場であり、様々な人々の人となりを知るよい機会だ。
花のことは視界に入れつつも、どちらかといえば仕事側に自分を向けていたはずた。
大体いつもそうだ。
話をしていても、目の前の相手に向けている意識はごく一部。
他の意識は次の面会の相手と内容、あるいは今年の税について、現在の成都の物価について、辺境に出る賊討伐にかかる費用と軍備、織機の改良方法まで、並行して考えているのが普通だった。

けれど、花と二人でいる時だけは違う。
孔明の全てが、花に向けられる。
彼女が眠ってしまっている今でも。
花の頬に触れた指先に、全神経が集中している。
なめらかな肌。
酒のせいか、ほんのりと温かい。
かすかな寝息が聞こえる。
目を開けて、ボクを見て。その瞳にボクを映して。
黄巾党にいた頃、彼女の寝顔を見つつ、いつもそう思っていた。
今も、まるで亮に戻ってしまったかのようだ。
花に、触れたい。
「花」
ゆっくりと顔を近づける。
今考えているのは花のことだけ。
かすかな甘い香りが、孔明を誘うように香っている。
もう少しで唇が触れる――というところで、花がぱちりと目を覚ました。
思わず声を上げそうになるが、孔明はなんとか声を堪えた。
飛び上がりそうにもなったが、飛び上がることも堪える。
瞬時に、息を整えた。
当たり前のように、いつもの声で、師匠らしく。
「花、起きなさい」
花はぱちぱちと瞬きをし、ふにゃりと笑った。
「ししょう」
「大丈夫?」
花に半ばのしかかっているこの状態、もし誰かがこの光景を見たら、伏龍の名は地に真っ逆さまに落ちることだろう。
当の花はまだ酔っているらしく、まったくこの状況が分かっていないようで、にこにこと笑っている。
寝ぼけている今のうちだ。
わざとらしくならないよう、そっと身体を起こして距離を取ろうとした。

ああ、それなのに。
花の腕が伸ばされ、孔明の首に回される。
「いかないでください」
めったに聞くことのできない甘えるような声で、すがられる。
孔明は理性をかき集めた。
一体、これは何の罠だろう。
「ししょう、すきです」
留めに、花がささやく。
寝台がミシリと軋む音が聞こえた。
離れようとしていたのに、自分がまた寝台に体重をかけていることを知る。
これは、どう考えても花が悪い。
孔明はゆっくりと息を吐いた。
「……君さ、酔ってるよね」
情けないことに、出てきた声は掠れていた。
「よってませんよ。ふわふわときもち良いですけど」
「それを酔ってるっていうの」
言いつつ、孔明は花の頬に触れる。
滑らかな肌は、ほんのり熱を持っていた。
指先を滑らせると、花がくすぐったそうに笑う。
孔明のかき集めたはずの理性など、もうどこかへ飛んで行ってしまった。
「花」
もっと触れたい。
花の熱を感じたい。
孔明が今、花しか見えていないように、花もボクだけを見て欲しい。感じて欲しい。
また寝台が大きく軋んだ。

コツコツと音がした。
足音。
孔明の耳が、音を捉える。
はっと我に返った。
誰かが、いや、この靴音は間違いなく芙蓉殿だ、廊下をこちらへ向かって歩いている。
きっと花の様子を見に来たのだろう。
孔明はさっと身体を起こして、寝台から離れる。
今度は花の腕は抵抗なく離れていった。
と同時に「花、大丈夫?」と芙蓉の声がする。
孔明は扉の向こうの彼女に「どうぞ、お入りください」と声をかけた。

部屋の中に入ってきた芙蓉は、孔明を一瞥し、寝台の上の花へと視線を向けた。
花の露わになっている脚が視界に入ったのだろう、途端に慌てて寝台へと駆け寄る。
「ちょっと、花!」
掛布を花に被せると、芙蓉は孔明へと向き直った。
「孔明殿、いくら貴方が師匠で恋人だからと言っても、意識のない女性の部屋にいることは感心しませんわ」
言葉遣いこそ慇懃だが、芙蓉がまとっているのは間違いなく殺気だ。
「いえ、先程まで子龍殿もいたんです。彼女を運んでもらいましたし」
孔明は肩をすくめた。
「しかし、こんな状態の彼女を一人には出来ず、女官を呼ぼうと思っていたところです。芙蓉殿に来ていただいて助かりました」
それは本心だ。
芙蓉が来てくれて本当に助かった。
それが伝わったのか、芙蓉の雰囲気が少し和らいだ。
撤退する時機だ。
「では、後をお任せしてもよろしいですか?」
芙蓉が「ええ、もちろんです」とうなずくのを見て、孔明は花の部屋から出た。

十分に離れたところで、欄干に寄りかかり、大きく息を吐いた。
本当に、危なかった。
芙蓉殿には感謝をしないといけない。
あのままだと、きっと歯止めが効かなくなっていた。
「まったく、あの子にも困ったものだよねえ」
孔明は、そのままずるずると座り込んだ。

「すきです」と言ってくれた声。
笑顔。
花の吐息。
彼女の身体のあたたかさ。

記憶力の良すぎる自分が、こんな時ばかりは恨めしい。
放って置くと、孔明の頭脳は先程の記憶再生にばかり使われてしまうのだ。
別のことを考えないと、夜も眠れないだろう。
そう、この腹いせはさせてもらおう。
せめて口付けぐらいはしても許されるはずだ。
孔明は気をそらせるためにその優秀な頭脳を使い、明日の計画を練り始めた。


END.

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