ボタン

花は無邪気すぎる。
もしかしたらボクは未だに亮くん扱いで、男として認識されてないんじゃないかと、時々思ってしまうほどに。
いや、ボク相手ならまだいい。
問題は、無邪気なままに、数多の男の心まで掴んでしまうことだ。
相手の心中に潜り込めるというのは彼女の長所ではあるものの、面白くはない。
師匠として、弟子をきっちり教育してあげないといけないよね。
少し楽しみだと、孔明は笑った。



ふと、首元のリボンタイの結び目がゆるんでいることに気づいた花は、きゅっと結びなおした。
それに気づいた孔明が視線を花に向け、そのまま、彼は花の首元を見続けている。
その視線に花は戸惑った。
「あの、師匠……」
「ああ、ごめん」
そう言いつつも、孔明の視線は花を見続けている。正確に言えば、花の首よりも下、胸よりも上の当たりだ。
時々二人になった時に見せる熱の籠もったものではなく、仕事をしている時の全てを見通すような冷静な視線だ。
それでもなんだか妙に恥ずかしくなり、花は思わず視線をそらした。
「それって」
孔明は立ち上がり、花へと近づいてくる。
逃げるべきだったのかもしれない。
けれど、花は動けなかった。
孔明は顔をぐいっと花の首元へ近づける。
「紐は単なる飾りで、これで留めてるんだね」
指先でボタンをさす。
どうやら興味があったのは花自身ではなく、花の服だったらしい。
心のどこかで安堵とがっかり感を感じつつ、花はうなずいた。
「はい、ボタンっていいます」
「ぼたん」
復唱する孔明に説明をするために、花は首元のリボンを解き、ボタンを1個外す。
「布のこちら側にボタンを付けて、こちら側に穴を開けておくんです」
そしてボタンをはめて見せる。
「なるほど、ぼたんを縦にすれば穴を通せて、2枚の布を重ねて留めることが出来るんだね。ぼたんが横になっている限り、穴は通らない」
「はい」
花がうなずくと、孔明はふうむと顎に手を当てて考え込む。
「ボクたちは紐で同じようなものを作るけど、そうか、金属や玉でも作れそうだ」
「そうですね。細かな細工をした装飾用のボタンもいいかもしれません」
「うん。貝や牛の角は呉から買わないと無理だけど、錫とか……」
孔明は考え込んでしまい、もう完全に花のことなど見ていない。
成都の新しい産業にしようとでも考えているのだろう。
花は孔明の思考の邪魔をしないよう、そっとリボンタイを結わえ直した。
孔明のことは放っておいて、自分の仕事をしようと筆を手に取る。
そう思ったのに、孔明に止められた。
「あ、仕事始める前に、もう少し待って」
「はい?」
「ぼたん、ボクが外してみていい?」
「あ、えーと、」
少し躊躇した。
でも、孔明はお仕事モードだ。ボタンを作るために触ってみたいのだろう。
でも首元はためらいがある。
「ここにも付いてますよ。どうぞ」
花は手首部分のブラウス部分を差し出した。
けれど、孔明は首元のリボンの紐をひっぱって解いてしまう。
「え」

目の前に迫る真剣な孔明の顔。
まっすぐに花を見つめている。
その孔明の手が花の首元へと伸びる。
孔明の指先が首筋に触れた。
思わず花の身体は震えてしまったが、孔明の指先はすぐに離れていく。
そしてブラウスのボタンを一つ、外す。
ボタンが初めてだというのに、しかも向かい合った他人の、一番外しにくいであろう首元のボタンなのに、孔明の手つきは迷いがなかった。
だからきっと、すぐに外したのだと思う。
けれど、花にとっては永遠にも感じられるほど、長い時間だった。
だって、孔明の顔がすぐ目の前。
師匠の黒い瞳は、今は下を向いている。
まつ毛が長いのは、亮くんの頃からだ。
こんな近い距離は、キスをするときぐらい。
驚きの代わりに段々と羞恥心が湧き上がってきた。
孔明はただボタンを外すことのみに集中している。
それなのに、こんなに恥ずかしく思う自分が恥ずかしい。

けれど、孔明はまだ解放してくれなかった。
孔明の指先は、上から2個目のボタンも外してしまった。
胸元が急に涼しくなって、花は我に返った。
ダメ!
ここから下はとてもマズイ。本気でヤバイ。
「師匠っ!」
花は慌てて引き離そうと孔明の肩を押すと、孔明はすんなり離れてくれた。
横を向いて急いでボタンを留めなおしていると、「はあぁ」というわざとらしいほどの大きなため息が聞こえてきた。
リボンタイまできつく締め直して、孔明に向き直り彼をにらむ。
花が文句を言うよりも早く、機先を制される。
「君さ、誰にでもこうやって触らせるの?」
「そんなわけないじゃないですかっ!」
花はぶんぶんと首を横に振った。
「師匠が! ボタンを作ろうと考えてたので特別です!」
「じゃあ、ボクだけ?」
「はいっ!」
今度は首を縦に振る。
「うん、良い返事だね」
孔明がにこりと笑った。
何かを間違えたと気づいたが、後の祭りだ。
「ボクだけだって言ってくれるのはうれしいけど、ボクだって男だよ。イヤだったらちゃんと断りなさい」
「イヤというか……」
すごく驚いたし、とてもはずかしかったのだけど、イヤではなかったと思う。
花が言い淀んでいると、孔明の笑みが深くなった気がした。
「イヤじゃなかった? じゃあ、せっかく練習したんだから、試してもいい?」
「試す……?」
試すってなにを?
花のその疑問に、孔明はすぐに答えてくれた。
「うん。脱がせたい」
ぬがせ? ……って!!
花はぶんぶんと全力で首を横に振った。
「い、いいわけないですっ!」
何を言い出すのだ、この人は。
ここは孔明の執務室で、仕事中。もちろん昼間だ。
いや、場所と時間の問題だけでもない。けれど、絶対イヤなのかと言われると、そういうわけでもないような……。
花はキョロキョロと視線を泳がせた。頬も熱い。心臓だって早鐘を打つよう。
そんな花の動揺など、孔明はどこ吹く風だ。
「脱がされたくないなら、ちゃんとボク相手でも警戒すること。他の男だったら、なおさら警戒すること。わかった?」
「……わかりました」
他に言いようもなく、花が渋々うなずくと、孔明は満足そうに笑った。
「脱がせるのはもう少し先だね。楽しみだなあ」
「う」
孔明のごく軽い口調からすると、からかわれているのだろう。
でもなんだか先ほどの至近距離の孔明を思い出し、意識をしてしまって、居たたまれない。
花が立ち上がって「芙蓉姫のところに行ってきます!」と部屋を飛び出すと、花の背後で孔明が吹き出していた。




あれ以来、少し手が触れただけでも、花は頬を染め、さっと孔明の手から逃げるようになった。
悪くない。しっかりと警戒心を植え付けることができたようだ。
それに顔を真っ赤にしている花はかわいいし。
あの赤い誓いの星が現れるまでは、そうやってボクを警戒していて欲しいものだと、孔明は思った。


END.

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